園章

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 戦後70年・・未来の子どもたちのために
   ひたすら祈る「核廃絶」と「平和」への思い

2015年8月 園長 原 良子

今年は、敗戦70年を迎え、私たちにとって、忘れてはならない、広島(6日)長崎(9日)に、原子爆弾が投下された月8月である。大きなきのこ雲と「ピヵドン」と呼ばれたその光線により、一瞬にして広島は、廃墟と化し、光線に当たった人は焼けただれ、全身の皮がズリ剥け、泣き叫び、父母を呼ぶ声もやがて途絶えて、阿鼻叫喚の地獄絵の様相がくり広げられた水を求めた川には、多くの死体が浮かんだ。

この1発の原子爆弾が何をもたらしたか。
原爆投下国のアメリカの当事者は、こうなる事はすべて承知上で、人体実験をしたと語っていた「こんなむごたらし事をして平気 だったか」「なんとも思っていない日本はパールハーバーを思い出せ」被爆した2人の女性と実際に原爆投下した軍人とのやりとりである。
被爆女性は、「この苦しみは全く理解されないままだった」と語ったのは10年前で、軍人も女性ももう亡くなってしまった。
戦争はまだ終わっていない。身体にも心にも大きな傷痕と痛みに慟哭しながら必死で平和を訴えている。
戦争も原爆も繰り返してはならない「3度許すまじ原爆を世界の上に」と私は未来の子どもたちの笑顔を守るために、ひたすら平和をと祈り続ける

 

戦争を知らない世代に語り継がねばならない
 「戦争の恐ろしさと悲惨さ」「原爆の後遺傷」

戦災孤児・・戦争で親や兄弟を失って一人ぼっちになってしまった子どもたちが大勢いた。ガードの下で、寝泊りをしたり、道端に転がって、野宿したりしていた子供たちは、食べるものも、着るものもなくて、いつもお腹をすかせて、ぼろぼろのものを身にまとっていた。余りのひもじさに耐えられず、闇市場の露天で、焼き芋を盗んだりしなければならない事もありました。空腹のために死んでしまうからしかたなかったのです。やがて焼き芋を作り始め、アメリカの兵の靴磨きなどをして同じような戦災孤児同士が助け合ったりして、生活のすべを身につけていきました。孤児院も出来ました

「鐘の鳴る丘」の歌で有名な長野県の孤児院の歌は、NHKの歌のおばさんによって歌われ全国に流れました。明るく希望に満ちた歌詞とメロデーとは、戦後の暗さや、打ちひしがれた私たちの心に灯を灯し勇気を与えてくれました。戦争の悲惨さを知らない、戦後生まれの総理大臣が誕生し中には、おかしな発言をして憚らない議員さんも出る始末。もっともっと真摯に戦争,平和の問題にがっぷりとりくんでほしいもの。子供たちの未来に夢があり、平和をあたりまえのこととして享受できる世界になってと祈る。そのために私は戦争の恐ろしさ、残酷さを訴え続けなければならない、戦争の悲惨さを知るものとして

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